礼拝説教要旨 (金子純雄牧師)
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2008年4月13日主日礼拝メッセージから 聖書 コリント第一2章1〜5節 霊と力による証明 パウロは福音を宣べ伝えるために初めてコリントを訪れたとき、「私は衰弱していて、恐れに取り付かれ、ひどく不安でした」と告白しています。極度の過労が体力を消耗させていたのかも知れません。持病があったとも言われます。そのために彼の伝道計画は再三、変更を余儀なくされています。それに加えて,「全ギリシャの光」と称えられたコリントの繁栄ぶりは、さしものパウロでさえたじろがずにはおれなかったのではないでしょうか。神を恐れず、人間の知恵や力にものを言わせようとするこの世の姿には恐るべきものがあります。深い暗闇を包み隠す文明の光には十分な注意が必要です。高度の文明を誇る今日の世界に生起している裏腹の現実、広がる格差や極度の貧困や飢餓、暴力、抑圧、憎しみと争いの連鎖、そして大気汚染や環境破壊等々、何れも看過してはなりません。そのような現実に苦しみもだえる人々にこそ福音が伝えられねばならないのです。しかし、そのようなところに福音を携えて立ち向かうのは、当然、恐れや不安を伴わずにはおれないでしょう。なまじの人間の知恵や才覚で対処できることではないのです。 しかし、福音は伝えられねばなりません。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。私があなたと共にいる」とは彼がコリント伝道において聞いた主のお言葉でした(使徒言行録18;9)。立ちすくむまずにはおれない現実の中で,パウロはそのお言葉に励まされながら、「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外に何も知るまい」と決心します。私たちは先週、神が「宣教という愚かな手段によって」人を救うこととされたということを学びました。十字架にかけられたキリストが救い主だ言うのは世の常識に全く反しています。知恵や力を求める所謂「賢い人々」とは対極の全く愚かしいことです。しかし、だからこそパウロは「私の言葉も私の宣教も、知恵に溢れた言葉によらず、霊と力との証明によるものでした」と言います。 霊と力の証明とは、何か神がかり的なことや自らの確信を振りかざすようなことではありません。キリストにしっかりと繋がれ、キリストの愛に根ざして生きること、十字架のキリストのみを仰ぎ、キリストに一切を委ね、信頼して歩むことです。それが信仰の衣を纏っていたとしても(信仰とは本来、裸の自分を神に差し出すことですから、纏いようのないものであるはずなのですが、往々にしてそのような錯覚に陥りがちです。その時に信仰は自我そのものとなってしまいます)、人間の力にものを言わせようとする時には、それこそ月が太陽の光を隠してしまうように、神の力を妨げます。むしろ、パウロが告白するように「(神の)力は、弱さの中でこそ十分に発揮される」(Uコリント12:9)のです。むしろ、弱さに徹し、神のみに望みを置くことを学びたいと思います。
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2008年4月6日 主日礼拝メッセージから 聖書 コリント一1:18〜31 宣教の愚かさによって 世の人々は愚かさを嫌い、賢さを求め、賞賛します。また無力であることを恥じ、力を身につけるための努力を尊いものと考えます。「ユダヤ人人はしるし(力)を求め、ギリシャ人は知恵を探す」とは、人類普遍の姿に他ならなりません。そのような中でパウロは「神は宣教という愚かな手段によって、信じる者を救おうと、お考えになった」と言います。おおよそ世の常識とは違った方法で神が救いの道を用意してくださったと言うのです。十字架の言葉とは、「十字架にかけられた」イエス・キリストその方を指します。ユダヤ人には躓きであり、ギリシャ人には愚かだと言うことに説明は不要でしょう。 今日の文明社会が人間の力や知恵の集積の上に成り立っていることは確かです。力を追い求め、知恵を尽くして開発した学問や科学技術が私たちの生活を向上させてきたということは、一面においては正しいでしょう。しかし、その恩恵に与ることも出来ない人々がなお、多くいるばかりか、格差が益々広がると同時に、環境汚染等をはじめとして地球そのものが崩壊に瀕している現実をどのように考えれば良いのでしょうか。しるしを求め、知恵を訊ねる人間はどこに向かおうとしているのでしょうか。努力や精進を重ね、力を蓄えることで神に達し得るとか、神はもはや不要であり、死んだ、と豪語する人々は少なくありませんが、そのような「賢い」人たちは、どこに理想郷を見出し、救いを見出そうとしているのか、むしろ、現実はその願いとは全く逆の悪魔的な恐ろしい世界を出広げているとしか言いようがないのではありませんか。 パウロは「世は自分の知恵で神を知ることが出来ませんでした」と語ります。人間がどのように力を極め、知恵を尽くそうとも神に至ることも、神を知ることもできません。人間の力や知恵の延長に神があるのではないし、救いが約束されているのでもありません。聖書は、人の発意や努力によってではなく、神がイエス・キリストを世に遣わし、しかも犯罪人として十字架刑に処せられると言う最も悲惨な姿において、人を救うこととされたと語ります。世の最も悲惨な現実、無力で弱く、罪に泣く、そのようなところに神が共にいてくださり、死の床から甦らせ、傷を癒し、涙を拭い、平和を与えてくださると語るのです。 「(神の)力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と主は言われます(Uコリント12:9)。神は力や知恵のある者たちではなく、無力な者、無に等しいものを敢えて(宣教のために)お選びになりました。それは誰も誇ることがないためです。「宣教の愚かさによって」世を救うこととされた神の知恵と力であるイエス・キリスト、十字架のキリスのみを誇りとし、そのキリストを愚かと言われようが、言葉だけでなく愛と真実をもって証しし続けたいと思います。
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2008年3月30日主日礼拝メッセージから 聖書 マルコによる福音書16章12〜20節 世に遣わされる群れ 人生には二つの道があります。身の安全を図って、困難や苦しみを避けて逃げ出す道と、敢えてて艱難に立ち向かって行く道です。ルカは復活の日に、恐らくはイエスの仲間だった者たちを探索する当局の追及の目を避けるように、騒然としたエルサレムを離れてエマオへの道を急いでいたクレオパともう一人の弟子のことを伝えています。復活の知らせを聞いても信じられず、途方にくれながら逃避行を続ける彼らにイエスは追いすがるようにして同伴し、話しかけられます。その時点では、彼らはそれがイエスだと分かりません。食事を共にしてイエスがパンを割き、讃美の祈りを捧げて彼らに渡された時、彼らの眼が開かれます。するとイエスの姿は見えなくなりますが、彼らは「道々お話になった時、聖書を解き明かしてくださった時、私たちの心は燃えていたではないか」と語り合って、時を移さず、危難が待ち受けているエルサレムに引き返したのでした。恐れではなく喜びが彼らを動かし、主が生きておられる事を告げ知らせるためにエルサレムへの道を急がせたのです(ルカ24:13〜24)。 イエスが復活したという話を百万遍聞いたところで、信じることが出来なければ、むしろ不安や恐れを募らせる他はないでしょう。ヨハネは復活の日の夕方、ユダヤ人を恐れ戸に鍵を掛けて家の中に閉じこもっていた弟子たちの姿を描いています。しかし、そのような弟子たちに主は「平和があるように」と語り掛け、ご自分を現されたのでした。パウロはイエスを直接的には知りません。 しかし、憤りに駆られてクリスチャン迫害の道を急いでいた時にイエスに出会ったのでした。イエスが彼に出会ってくださったのです。彼は自らについて「私は使徒ではないか。イエスを見たではないか」(Tコリント9:1)と言います。 主は単に復活が事実であることを分からせるために人々にご自分を現されたのではありません。ヨハネは家の中に閉じこもっていた弟子たちに姿を現したイエスが「父が私を遣わされたように、私もあなたがたを遣わす」と言われたと伝えています。マルコも不信仰な弟子たちに「全世界に行って(口語訳では「出て行って」)すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」という主のお言葉を語ります。福音宣教は主の厳かな命令ですが、それ以上に、臆する者を励まし、神が創造された世界に引き出し、恵みのわざに参与させようとする愛と慈しみに満ちた呼びかけです。主は弟子たちを通して驚くべきことを地に行おうとされます。そのために敢えて彼らを、そして私たちを世に遣わされます。 お言葉に促されて弟子たちは出て行き、至るところで宣教しました。「主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしをもってはきりとお示しになった」のでした。これこそが復活の証明に他なりません。
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2008年3月23日イースター主日礼拝メッセージから 聖書 ローマの信徒への手紙6章1〜5節 イエスの死といのちに与る 主イエスは人の罪を負って十字架にかけられ死なれました。十字架を仰ぐ時、私たちは自らの深い罪状に慄き恐れずにはおれません。まさに「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6:23)。イエスはその私たちの罪を引き受け、私たちの死を死んでくださったのです。しかし、イエスにおいて死は最後ではありませんでした。イエスは死を破って甦られたのです。 どのように崇高な死、犠牲的な死であっても、それが最後ならば、そこには希望はありませんし、愛は育ちません。今日、「死には勝てない」という信仰が世界を覆っています.至るところで死が跳梁し、暴虐な力を奮っています。死に翻弄され、愛も希望も見失っている世界の現実は決して他人事ではありません。しかし、神はそのような世界を決して見過ごしにはされません。キリストを死人の中から甦らせることで、死が終わりではなく、むしろいのちの始まりであることを示されたのです。闇に向かって「光あれ」と語って光を創造された神(創世記1:3)は、イエスの復活を通して、私たちに「新しいいのちを生きよ」と呼びかけておられるのです。イエスは甦って命の道を示し、イエスに従うように呼びかけておられるのです。 復活など信じられないと言う人は少なくありませんが、人間の叡智がもてはやされ、科学技術の長足の進歩が称えられながら、死を克服できず、死に呑み込まれている人間世界の現実をどう考えれば良いのでしょうか。しかし、そのような世界に向かって、あの臆病だったり、疑い深いばかりか、この世的には全く無力としか見られなかったイエスの弟子たちは「復活の証人」であることを自認して力強く復活の主を証しして行きました。彼らはイエスの死を身に負うと同時に、イエスのいのちに与っていることを身をもって力強く示しました。世界を変える力を現して行ったのです。復活はイエスによる新しい創造を意味します。「キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです」(Uコリント6:17)。もはや死のわざに与することはありません。命のわざへと招かれているのです。 バプテスト教会ではイエスを主と告白し、従うことを公に表明するために浸礼(バプテスマ)を行っています。罪にまみれた古い自分がイエスと共に死んで、イエスにある新しい命に与る者とされたことを身に刻み、内外に宣言する厳かな時、喜びの時です。主の復活を記念し祝うこの日に、二人の方が神と会衆の前で信仰告白をし、バプテスマを受けられることを心から感謝します。私たちは「イエスの焼印を身に受けている」(ガラテヤ6:17)のですから、イエスにおける命のわざに共に励みいそしもうではありませんか。 |
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2008年3月16日 主日礼拝メッセージから 聖書 ルカ福音書23章32〜38節 父よ、彼らをお赦しください キリスト教のシンボルとも言うべき十字架は今日、どこか格好の良い飾りのように受け止められたり用いられていますが、それが神からも捨てられたような極悪人へ極刑であり、その苦痛が言語に絶するものだということを、どれだけの人が考えているのでしょうか。イエスは十字架にかけられました。いったいどのような罪を犯したと言うのでしょうか。 イエスを涜神罪で告発したのは当時の宗教的な指導者たちでした。彼らはモーセの律法をないがしろにしたという理由でイエスを排除しようとしたのですが、そこには自分たちの権威を脅かすものへの警戒心や妬みがありました。死刑を言い渡す権限のない彼らは総督ピラトにイエスを引き渡します。ピラトはイエスの無罪を認めながら、群集の声に押されてバラバを釈放しイエスを十字架にかけさせます。彼の評判に傷かつくことを恐れたのでした。群集の中にはわずか5日前にロバの子に乗ってエルサレムに入城したイエスを歓呼の声で迎えた人々もいたでしょう。変節極まりない人々の姿は、正に「風にそよぐ葦」に他なりません。パンの奇跡を目撃してイエスを王に仕立てようとした人々にとって裁きの場に引き出された惨めな姿のイエスは、「落ちた偶像」でした。重い十字架を負わせて、鞭を振るい、悪態を罵倒や嘲笑を浴びせかけながら処刑場に引き出し、衣服を剥いでくじ引して分ける兵士たち、「救い主なら自分を救え」と悪態の限りを尽くす人々。十字架はイエスを処刑する人々の心無い,罪の姿を鮮やかに映し出しています。イエスの弟子たちも例外ではありません。ユダの裏切り、ペトロの否認。蜘蛛の子を散らすように逃げさった弟子たち。私たちはどうなのでしょうか。「あなたも見ていたのか...深い深い罪に私は震えてくる」(教団讃美歌U、177)黒人霊歌の歌詞が心に迫ってきます。 十字架の恐ろしさは言語を絶する肉体の苦痛にもまして、神にも見捨てられたという絶望感にありました。イエスも「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と悲痛な叫びを挙げておられます。しかし、イエスはそのような中で、なおご自分を十字架にかけた人々の赦しを神に祈られました。 「彼らは何をしているのか知らないのです」、罪人へのこの無限の同情、罪を赦す権威のある方への深い信頼を示すことで、神とご自分が一体である事を言外に語っておられるのです。 イエスは「敵を愛し、迫害するもののために祈れ」と教えられました。単なる教訓ではなく、ご自分を示しておられるのです。イエスの深い愛と赦しの中でこそ、私たちにも新しい地平が広げられて行くし、その事実を身をもって証して行く、そのことにこそ教会の存在理由があると言わねばなりません。
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2008年3月9日の主日礼拝メッセージから 聖書 ルカ福音書22章39〜46節 ゲッセマネの祈り 捕縛される直前の「ゲッセマネの園」での主イエスの祈りは、肺腑を抉る壮絶さと共に、祈りの本質を示すものとして知られ、有名な聖画もあり、讃美歌にも多く歌われています。イエスは祈りにおいて常に神と共におられました。ゲッセマネの祈りは偶発的なものではなく、不断の祈りの必然的結果であり、頂点とも言えます。 「ゲッセマネの祈り」は何を語りかけているのでしょうか。「御心が行われるように」と私たちも祈りますが、その意味の重さがどれだけ踏まえられているのか、祈りは神との対話であり、神に真実向き合うことで,神の意思に従うように導かれるというのは全く正しいことです。しかし、それは最初から自明のことではないと思います。祈りは神への訴えであり、懇願でもあります。時として激しい要求という姿を見せることもあります。しかし、それはどこまでも人格的な信頼を前提とすべきものであり、そうでなければ、どんなに熱心な祈りも独り言に他ならず、深い失望や怒り、恨みを伴う離反、そして孤立を生み出すことになります。 マルコによれば、「私は死ぬばかりに悲しい」と弟子たちに一緒に目を覚まして祈るように求めておられます。イエスが祈っておられる、正にその時、ユダに先導された人々がイエスを捕らえるために園に向かっていました、ペトロの否認、弟子たちの順位争い等、イエスに近い人々の間にも裏切りや争い等、分裂した人間の醜い姿が隠しようもなく見られます。それは世界の縮図であり、現実に他なりません。ヨハネは17章の「大祭司の祈り」で神とご自分が一つであるように、弟子たちが一つに結ばれるように、更にすべての人々が一つになるようにと祈っておられます。この祈りがゲッセマネの祈りの内容だったかは明確ではありませんが、イエスは憎しみや争いという隔ての壁を取り除くために、ご自分の身を投げ出されたのでした(エフェソ2:14〜18参照)。 ヘブライ人への手紙はイエスを民のために神に執り成しの祈りを捧げる「大祭司」と呼び、「肉において生きておられた時、激しい叫び声を挙げ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に祈りと願いをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」(5:7)と語っています。死を避けることは出来ませんでした。しかし、救いの源となられたのです。私たちには大祭司キリストがおられます。大胆に主に近づこうではありませんか(同4:14〜)。 |
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2008年3月2日主日礼拝メッセージから 聖書 コリント一11章16〜27節 私の記念として 私たちの教会では毎月第1主日の礼拝の中で「主の晩餐」を行っていますが、それが過越しの祭りの際に行われた、所謂「最後の晩餐」における主イエスのお言葉に基いています。教会にとって大切な礼典ですが、宗教的な儀式はともすれば形に捉われることで、本来人を生かし一つに結びつけるはずのものが人を締め出し分裂を生み出すことが少なくありません。パウロが主の晩餐について語っている背景、憂うべきコリント教会の内情を先ず考えてみましょう。 その一つは党派争いです。自分の好みに合わせて勝手に徒党を組み、優劣や聖者を競い、争うような愚かさはコリントの教会だけではありませんが、そこではキリストですら担ぎ出されて偶像化されてしまうことが多々あります。パンの奇跡を目撃した群集がイエスを王にしようとしたのは、その好例でしょう。自分たちの思うようにならないと踵を返すように離反する人々の姿は他人事ではありません。第二は霊の賜物を巡る優劣、大小の比較です。霊的とか熱心さということが脚光を浴び易い信仰の世界で、しばしば人を裁き、弱い人が切り捨てられるのは、神の賜物について何も判っていないと言わざるをえません。 神は夫々のはかりに従って恵みを与えてくださり、一つの体を建てさせてくださいます。夫々が無くてはならない大切な存在であり、他を軽んじ否定することは許されるはずもないし、それは自己否定に繋がる他はないでしょう。パウロが教会をキリストの体であり、夫々がその肢体であると語っている深い意味を悟らねばなりません。貧富の差やそれによる差別もコリント教会の問題の一つでした。当時は今日のように儀式化されたものというより、それは文字通りの食事を意味していたようです。アガペー(愛餐)と呼ばれていました。我先に食べて飽食し、酔っぱらっているような豊かな人たちと遅れてきたために食べるものがなく途方にくれる貧しい人たち、こういう差別や無秩序が、こともあろうに教会で許されて良いのか、パウロが主の晩餐における主イエスのお言葉を持ち出した背景には、そのような事情があったと考えられます。 パウロはキリストが肉を裂き、血を流された十字架の意味を語ります。主の食卓に連なることは、すなわち「アガペー」に与ること、主の十字架の愛を現すことです。「主の死を告げ知らせる」とは、分裂した双方を「ご自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされた」(エフェソ4:15,16)キリストの驚くべき愛とみわざを私たちの生活のすべてを通して証ししていくと言うことではないでしょうか。教会はその意味で「聖餐共同体」に他なりません。神の前に相応しくない自分を告白し、そのような者をなおも限りなく愛してくださる主に感謝しつつ、「主の晩餐」に与る者でありたいと思います。 |
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2008年2月24日の礼拝メッセージから 聖書 コリントの信徒への手紙一13章8〜13節 いつまでも存続するもの コリント一13章の「愛の賛歌」で用いられている「愛」はアガペーです。私たちの間で語られる「愛」がしばしば、条件付であり、見返りを求め、自分に価値があるものに限られ、しかも容易に憎しみや怒りに転換されるのに対してアガペーは価値を問わず、無条件に、しかも無償で自分自身を相手に注ぎ込まずにはおれない、それこそ神の愛に他なりません。 従って「愛(アガペー)は決して滅びることはない」のです。人間に属するもの、また被造物は、それが如何に優れた宗教体験であれ、力や知恵を誇ったとしても、やがては廃れます。「天地は滅びる」(マルコ13:31)のです。そればかりか、決して完全なものではありません。パウロが「知識や予言も一部分」と言う背景には当時、コリント教会の中に混乱を巻き起こしていた人々の中に「自分は完全な者になった」と自らの霊的な体験を誇り、信仰の奥義に達したと公言して、そうでない者を軽視し、排除するような傾向がみられたことや、誤った終末意識から自堕落な生活を是認する人々がいた事実があります。神の恵みの賜物である信仰とそのわざを自分の所有物であるかのように思い込み、その信仰にものを言わせようとする時に私たちは必ず失望の淵に落ち込むことになるでしょう。また世俗的な終末観に溺れてはなりません。希望を失った世界の悲劇を私たちは今日、いやと言うほど見せられています。決して他人事ではありません。「夜は更け、日は近いづいた。闇の行いを脱ぎ捨てて、光の武具を身に着けましょう。日中を歩くように。品位をもって歩もうではありませんか」(ローマ13:12)というパウロの言葉を心に刻みたいと思います。 私たちは信仰と希望と愛において極めて不完全と言うより、無に等しいような者であることを告白せずにはおれません。しかし、パウロはフィリピの信徒に宛てた手紙の中で「私は既にそれを得たとか、既に完全になっているわけではない、何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリストに捕らえられているからです」と言います(3:12)。今はおぼろであり、不完全であっても少しも構わないのです。キリストという目標に向かって走り続けることこそ、パウロの言う「完全な人」であり、信仰者の姿です。 信仰と愛と希望は過去、現在、未来に対応します。そしてそのいずれもキリストを離れてはあり得ません。キリストの十字架と復活の決定的なみわざにおいてのみ、私たちは未熟ながらも愛を基底に、労苦を厭わず、信仰を働かせ、望みを抱いて艱難にも耐え、喜び勇んで歩み出すことが出来るのです。 |
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2008年2月17日の礼拝メッセージから 聖書 コリントの信徒への手紙一13章8〜13節 愛がなければ コリント一13章は「愛の賛歌」として知られており、「愛がなければ、一切は無に等しい」という言葉も、説明の余地がないほどに解り切ったことです。しかし、これほど難しく、現実と乖離している言葉もないでしょう。 パウロはここで一般論として「愛」の定義を語っているのではありません。当時、コリントの教会には霊の賜物を巡って信仰の優劣を問うような混乱と争いがありました。賜物は神の恵みの現われなのですから、外側の状態、目に見える姿で序列が決まったり、力の有無で貴賎が論じられるようなことはあり得ないはずです。しかし、信仰の世界にもしばしば力の論理や正論が罷り通って弱く無力と見えるものが軽視され、排除されるようなことがあります。パウロは教会をキリストの体にたとえて、それぞれが異なった賜物を与えられているけれども体を構成する部分はどれも大切だと語り、それらの賜物を一つに結び合わせる大いなる靭帯として「愛」を語ります。 どんなに優れた賜物、それが異言であれ、予言する力であれ、また学識や山を移すほどの完璧な信仰があったとしても「愛がなければ」無益です。愛の絆が欠けるところでは、例え信仰的な意味合いでも力は、無益どころか災いを生み出す他はないのです。しかし、この「愛」とはどのようなものでしょうか。パウロは4〜7節で愛の特質について語っていますが、愛は観念ではありませんし、愛が求められているのは他ならない私なのですから、「愛」という言葉を「私」と言い換えて読むべきですし、愛は相手との関係において発揮されるはずのものですから「私は(具体的な隣人に対して)忍耐強く(口語訳では『寛容』と訳されています)、情け深く、ねたまず、高ぶらない」と読むべきでしょう。しかし、誰が最後まで「私」を主語にして読めるでしょうか。愛が崇高な徳目であり、愛なしには真実な意味で人間として生きることが出来ないことを知っていても、私たちの中にその『愛』がどれだけあるのでしょうか。 しかし「私」ではなく「イエス・キリスト」を主語にすれば納得できます。愛の乏しい私たちのために主が何をしてくださったのか、どんなに大きな愛をいただいているのか、愛の賛歌はキリスト賛歌に他なりません。キリストの愛に包まれ、導かれるところに愛が始まり,広がるのです。アジシの聖フランシスの「平和の祈り」は愛に溢れて美しく、心を慰め、励ましに満ちてます。しかし、それが祈りだということが重要です。私たちは愛に欠けているからこそ祈らずにはおれません。その祈りに主が応えてくださるのです。
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2008年2月10日主日礼拝メッセージから 聖書 マタイによる福音書22章34〜40節 自分を愛するように イエスは「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めの重要さを教えておられますが、並行記事のマルコ12:28〜34やルカ10:25〜28を見ても、それが律法の中心であることはユダヤ人にとって明白なことでした。今日の私たちにとっても、その大切さは恐らく議論の余地はないでしょう。しかしこの当たり前の道理が思うように出来ていない現実は否定できません。何故でしょうか。 「隣人を愛しなさい」という戒めの前に、「主なる神を愛しなさい」という戒めが述べられており、第一、第二と語られていますが、これは単なる順番ではありません。第二は第一の戒めに負うており、第一の戒めは第二によって全うされるという意味です。第一の戒めは申命記6:4〜6の所謂「シェーマ」と呼ばれるイスラエル民族の戒めの中の戒め、彼らの生活の文字通り中心でした。 7節以下に述べられている通り、神を愛することは幼時から徹底して教え込まれたのです。中心がぼけてたり軽視されては人間生活の横の広がりを生み出し、広げることはできません。人は自ら存在する者ではなく、寄って以って立つものです。その根源的なものに目をむけ、敬愛の念を抱くことなしに、どうして自分も含めて人を愛することができるでしょうか。同時に、聖書は「目に見える兄弟を愛せずに、どうして目に見えない神を愛することが出来るか」(ヨハネ第一4:20参照)と語っています。いわばこの両者は車の両輪、あるいは布地の縦糸と横糸であって、切り離すことが出来ないのです。 「自分のように」とはどういうことでしょうか。誰も自分が可愛く大切だと思うでしょうが、それが自己愛とか自己中心的な思いであれば、隣人を愛することなど出来るはずもありません。私たちは自分をどれだけ大切に考えているのでしょうか。自分に愛想を尽かしてしまうこともあります。愛しきれない自分がいないでしょうか。「自分は何と惨めな人間だろうか」とパウロは言います。自分の中に巣食う罪のおぞましさに彼は震え慄きます。善と悪の間で引き裂かれ分裂している自分を告白せずにはおれないのです(ローマ7:15〜24)。そんな自分をどうして愛することが出来るでしょうか。 しかし、そのような私たちを神が愛してくださったと聖書は語ります。神は自暴自棄になるばかりか。神に敵対し、人をも憎み、踏みつけにせずには折れないような私たちを、追い求め、ご自分の中にしっかりと繋ぎとめようとして、御子イエスをお遣わしになりました。「ここに愛がある」(ヨハネ一4:10)のです。その愛をいただいていることを自覚することから、自分も隣人も本当に愛する事が始まるのではないでしょうか。
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2008年1月27日の礼拝メッセージから 聖書 コリントの信徒への手紙二4章16〜18節 日々新たにされていく 連盟総会の決議に基き全国支援拠点開拓伝道がこの地で開始されたのは1980年初頭のことでした。翌年9月に教会堂が建てられ、84年4月には教会組織が行われました。異例の速さでした。会堂に人が溢れ子どもたちの歓声も響き、教育館や天思堂、教会事務所の建築等々、教会は活気に溢れていました。しかし、教会の歩みも人生と同じように好不調の波はあります。様々な経緯があり私たちは今、再建3年目を迎えようとしています。ともあれ、伝道開始28年を記念するとはどういうことか、二つのことを心に刻みたいと思います。 一つは、連盟の伝道戦略や全国諸教会の熱い祈り、信仰の先達の懸命な働きの背後に、すべての人々が福音に与ることが出来るように神がこの地を選び、教会を建て、私たちを招かれたということです。教会は私たちの自己目的のために造られたものではなく、人々が豊かな命を得赦しと和解によって分裂した世界が一つとされ、憎しみや敵意を滅ぼして愛と平和の中に生きるようにという神の熱情を基盤としています。教会の屋根に掲げられている十字架は、受難のキリストこそが教会の主であることを表しています。主の受難(パッション)は何としてでもご自分のもとに人々を繋ぎ留め、愛の交わりの中へと招き入れようようとする神の情熱(パッション)の現われに他なりません。教会はその神によって成ったのであり、キリストが私たちを選び、招いてくださったのです。 今一つは、パウロがその伝道生活の中で実に様々な困苦に直面したことは良く知られています。外的な要因だけでなく、肉体的な障害もありました。彼の手紙からは時として悲鳴にも似た自らの弱さの告白を聞こえて来ます。どのように強がろうとも人間は本質的には弱く脆い存在であり、壮なる者も古び衰えて行くことは避けられません。しかし、パウロは自らの弱さを率直に語りながら「落胆しない」と言います。「外なる人」は衰えて行くとしても「内なる人」は日毎に新しくされて行くことを知り、信じているからです。外とか内とは単に人間の外観と内面と言うだけではありません。パウロは此処で自分が肉に属する者ではなく、キリストの愛と命に生かされていると語っているのです。滅びに瀕しているように見えるそのときにも揺るぎの無いキリストの愛と命が私たちを育み、命の営み、希望のわざへと導いてくださるのです。 |
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2008年1月13日主日礼拝メッセージから 聖書 エレミヤ書31章31〜34節 新しい契約 エレミヤは北イスラエル王国の崩壊から南ユダの滅亡に至る紀元前7世紀から6世紀を前後の40年にわたり、民族の苦悩と悲劇を自らの肌身に刻みながら神の言葉を語り続けた預言者でした。彼は涙しながら、それが神との契約関係を一方的に破ったイスラエルの罪の結果であると指摘すると同時に「新しい契約」が結ばれる日が来ると語ります。それこそ彼の予言の中心でした。 聖書の神は「契約」の神です。契約とは一方的なものではなく、優れて人格的な関係と行為です。神は人を人形やロボットとしてではなく、自由意志を持った一人人格、神と対話し応答する能力を備えた存在としてお造りになったと聖書は語っています。それは愛の発露に他なりません。愛はどこまでも人格的な応答関係だからです。しかし、そのような意味で交わされた神とイスラエルの契約関係はイスラエルの背信によって脆くも破られてしまいました。亡国の悲運は契約の一方的な破棄によるものでした。イスラエルの背信は少なくとも次の事柄に見ることが出来ます。私たちにも同じ陥穽は待ち受けています。 第1は、神の戒めを忠実に守っているように見せながら、その精神を顧慮しない「律法主義」と言うことです。イエスはマタイ23章で当時の律法学者や熱心さで知られるファリサイ派の人々を「偽善者たち」と厳しく難詰しておられます。第2は、偶像礼拝ということです。偶像とは単に人が手で刻んだ像とか聖書の神以外の神々と言うだけではありません。パウロの言葉を援用すれば「自分の腹を神とする」ことです。自分の必要を満たしてくれる、自分にとって都合の良い神こそ偶像に他なりません。キリストですら偶像に仕立ててしまうということもあるのです。第3は園民意識の歪みです。神から与えられた使命が特権意識にすり返られて行ったことと園民という枠組みに安住して神に応答すべき自己を問うことが疎かにされていたことは、例えば29節などからも容易にうかがい知ることが出来ます。 イスラエルの背信は民族的な悲劇を生みました・しかし、エレミヤは破局の中でイスラエルに対して「新しい契約を結ぶ日が来る」という慰めに満ちた神の言葉を聞きます。イスラエルの背信で廃棄されてしまった古い契約に対して神はその民を諦めたり捨ててしまわず、新しい契約の締結を約束されます。神は「私の律法を彼らの胸の中に授け、心にそれを記す」と言われます。そして「私は彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることがない」と言われるのです。それは神が常に人々と共にあり、主を知る知識が地に満ちるからです。 この新しい契約はイエス・キリストにおいて実現しました。
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2008年1月6日主日礼拝メッセージから 聖書 イザヤ書11章1〜10節 終わりなき平和 新年を迎えました。世界では相変わらず心を痛めずにはおれない悲惨な出来事が多発しています。相次ぐテロや暴動、それに対する軍事的な報復、富ヤ権力の偏在と格差社会が生み出す憎しみや敵意の連鎖、文明の名の下に広がる自然環境の破壊と地球温暖化等々、人間を含めて地球そのものが崩壊の危機に直面しています。使徒パウロは人間のみならず、すべての被造物が虚無に服し、苦しみもだえていると(ローマ8:22参照)と語っています。問題の根は今に始まったことではないのです。 聖書は「神が始めに天と地を創造された」という壮大な言葉で始まっていますが、神は光に始まって天と地に属するもの、月、星、太陽、そして海と陸、更にその中に住む生物を次々に創造し、その都度「これを良しとされた」と創世記は語ります。聖書の創造物語を荒唐無稽な神話だと片付けてはなりません。そこには対象を求めずにはおれない神のまさに創造的な愛と慈しみが語られているのです。その神が良しとされた被造物が今や虚無に服し、混乱と破壊を繰り返し、崩壊の道を疾走しているのは何故でしょうか。 聖書は神の御心に逆らい、自らを神とするような自己中心が人間のみならず被造物全体を虚無に導いていると語ります。聖書が語る「罪」とはそのことに他なりません。地球温暖化にしても、戦争や飢餓の背景を考えても、そこには力に任せて自分の利益を図り、弱い立場のものを踏みつけて顧みないよこしまさが潜んでいることは否定できません。パウロはそのような人間について「神を神として崇めることも感謝することもせず、むなしい思いにふけり、心が暗く鈍くなった」と語ります(ローマ1:18〜23参照)。私たちは人間の罪と、それがもたらす恐るべき破局について無関心に過ごしてはなりません。 預言者イザヤの時代も同じ人間の現実がありました。「神の平和」と称えられた都エルサレムは戦火に焼かれて崩壊し、人々は塗炭の苦しみに喘ぎました。そのような中でイザヤは一人の童に導かれる究極の平和を語ります。平和とは戦争がないことだけでなく、主を畏れ敬い、公平と正義、真実が貫かれることです。人間同士の平和に留まらず、預言者は更に野獣などとの共生を語ります。11:6〜8のようなイメージを誰が抱くことが出来たでしょうか。しかし、野獣に対する恐れや警戒心は何に由来するのか、自分を守り、自分の思いを満たそうとする人間が力を振るって、むしろ彼らを脅かして生存権を奪っているのではありませんか。力では真の平和は決して実現しません。無力な人の姿でお生まれになったイエスこそ真の平和であり。平和への望みは彼にあるのです。
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2007年12月30日の主日礼拝メッセージから 聖書 ルカ福音書2章8〜20節 羊飼いたちの讃美 クリスマス行事は終わりましたが、私たちはクリスマスに始まる新しい歩みを踏み出しています。あの羊飼いたちの物語は何を私たちに語りかけているのでしょうか。 牧歌的なイメージで捉えられ易い彼らの現実は極めて厳しく、羊の群れを守るた めに命を賭ける場合もありました。彼らは貧しく、名も無い人々でした。しかし、誰よりも早く救い主の降誕を知ったのは彼らでした。神殿に仕える祭司や律法学者でも、律法に忠実な生活を送っている善男善女でも、まして王侯貴族などではなく、街の賑わいから遠く離れた荒れ野の生活、しかも夜通し、野獣の咆哮を聞き、寒さに震えながら、夜通し羊の群れの番をする彼らが救い主降誕に事実を知ったということは「貧しい人たちは幸いだ」と言われた主イエスのお言葉を思い起こさせます。福音は「すべての民に与えられる大きな喜び」です。しかし、それを本当に味わい知ることが出来るのは誰でしょうか。自らの貧しさを知った人たちです。私たちの神は貧しさに苦しみ、弱さに泣く人々を見捨てず、豊かに顧みてくださるのです。 時ならぬ天使の出現と主の栄光の輝きに羊飼いたちは驚き恐れました。それは何時しか闇に慣れた人間の日常性を破る「聖なるもの」の介入とも言えるでしょう。光は闇を貫き、一切の虚飾をあばき出します。しかし、恐れに満ちた現実に慄く時、私たちは「恐れるな」という御言葉を聞くのです。私たちのため救い主がお生まれになったからです。飼葉桶の乳飲み子こそ、そのしるしだという天使のメッセージは神が最も貧しく、無力な者の中に共にいてくださるということの確証であり、「インマヌエル(神、我らと共にいます)」の主を力強く指し示しています。 「天に栄光、地に平和」という天使たちの歌声はクリスマスを象徴する素晴らしい響きです。栄光が神にではなく人に帰せられるところに平和は無く、平和がないところでは神の栄光も讃えられようがありません。しかし、その神の栄光が威風堂々とした凱旋将軍の姿ではなく、飼葉桶の幼児において現されたということ、それを羊飼いたちが知らされたということこそクリスマスの大きな秘儀ではないでしょうか。 羊飼いたちは急いでベツレヘムに行って幼子イエスにお会いして、見聞きしたことがすべてその通りであったので、神を讃美しながら帰って行った、とルカは伝えています。彼らはもとの生活に戻って行きました。寒風の吹きすさぶ荒れ野で羊の群れの番をする彼らの貧しく厳しい生活は外面的には大きく変わることは無かったでしょう。しかし、彼らは神を崇め、讃美する生活へと導かれました。それが生活の基調となったのです。それこそ、闇を思わせる現実を変えていく力です。羊飼いたちと共に私たちも讃美を基調に、希望の光に向かって新しい一歩を踏み出しましょう。 |
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聖書 ルカ福音書2章1〜7節 イエス・キリスト誕生の秘密 英雄や偉人の物語にはその偉大な生涯を飾る、いわば道具立てとして極貧の中での出生が殊更に語られることがありますが、ユダヤの寒村、ベツレヘムのしかも、家畜小屋でのイエス・キリストの誕生は果たしてそのような類のものでしょうか。イエス誕生の次第をルカの記事から考えてみましょう。 「人口調査のために故郷に戻って登録せよ」と全領土の住民に発せられたローマ皇帝の命令でユダヤ地方の村や町も人々の時ならぬ移動で混雑を極めていました。人口調査のためでしたが、それは明らかに徴税のためであり、国力を測り、軍事力を整備するためだったと思われます。ユダヤ人にとっては屈辱的なことでしたが、逆らうことは出来ません。身重のマリアを伴ったヨセフの帰郷には、権力に翻弄される無力な人間の姿が映し出されています。それだけではなく、彼らは大きなハンデキャップを担っていました。貧しい人たちでした。ルカは家畜小屋でのイエスの誕生を伝えた後、「部屋には彼らの泊まる場所がなかった」と説明しています。口語訳聖書は「客間には彼らのいる余地がなかった」と語っています。そこには自分のことで心を奪われ、困っている人に目もくれない、また弱い立場の人を締め出してしまっている人間の自己中心性が潜んでいます。おぞましい罪の姿と言わねばなりません。 イエスは、そのような状況の中でお生まれになりました。家畜小屋の飼葉桶に寝かされた幼児の誕生を知る人がどれだけいたでしょうか。またその幼児を誰が、神の子、救い主などと思うでしょうか。神は、幼児イエスにおいてまさに人々に隠された姿でこの世に人となられたのです。しかも、この世の最も貧しく、捨てられた者のようにご自分を世に現されたのです。それは逆境にめげずに身を起こし、多くの栄誉を克ち得た偉人の誕生物語ではありません。家畜小屋でのイエスの誕生は、貧しさや惨めさに泣き、罪に苦悶する者の重荷を担い、十字架に架けられたそのご生涯の序章に他なりませんでした。家畜小屋の背後に十字架の主をこそ仰ぎ見るべきです。 礼拝の招詞にイザヤ所53章1〜2節を読んでいただきました。「苦難の僕」の歌として知られていますが、神が私たちに代わって苦しみを受け、その傷で私たちが癒されるということを誰が信じるでしょうか。しかし、イエスはそのような救い主として お生まれになったのです。ベツレヘムにはヨセフたちを、従ってイエスを泊める部屋はありませんでした。そして今も多くの人々がイエスを心にお迎えする余地がないままに、本当の救いを締め出しているのではないでしょうか。心にイエス様をお迎えするクリスマスでありますように。イエスがおられるところにこそ本当の平和と喜び、そして讃美が満ち溢れるのです。 |
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聖書 マタイ福音書2章1〜12節 救い主は何処におられますか クリスマスにおなじみの東の国の学者たちが救い主の誕生を知って、はるばる拝みに来たという物語をマタイが伝えているのは何故でしょうか。 「ユダヤ人の王として」という学者たちの言葉にも拘らず、その方が国を超えた世界の王であること、まさに「キング オブキングス」であることをマタイは明らかにしています。それにしても、救い主の到来を待ち望んでいたはずのユダヤ人ではなく、外国の学者たちがその誕生を知ったのは皮肉です。学者たちに訊ねられて、聖書を引っ張り出して調べたユダヤの祭司長や律法学者の慌てぶりが目に浮かびます。誰より驚き、恐怖感すら抱いたのはヘロデ王でした。神によらない権威や人間が自らの才覚や策謀で身に着けた権力は脆いものです。しかし、何と多くの人が世の力にしがみつき、喪失の不安に怯えて狂気に走ろうとしていることか、戦慄すべきヘロデの幼児殺しは2千年昔の特定の人物の問題に限ったことではありません。 人に勝る力を求め権謀術策をめぐらして権力の座に着いたヘロデ王の狂気と天体の動きを通して真理を極めようとする学者たちの誠実さや謙虚さは対照的です。彼らが救い主の出現を知ったのは単なる偶然ではないでしょう。しかし、その彼らも救い主に辿り着くまでには聖書の証言と星の光が必要でした。み言葉に教えられ、聖霊に導かれなければ誰も主を知ることは出来ないのです。 それにしても寒村ベツレヘムに生まれた幼児が救い主であるとは、学者たちも当初は予測もしていなかったに違いありません。ユダヤを目指した彼らは首都エルサレムの王宮を先ず訪れています。多くの人々が有力なものの中に救いを求めます。貧しさや弱さ、無力さには目もくれず、忌避します。しかし、聖書は神が貧しさに苦しみ、弱さに泣くような人々と共にいてくださるために、最も貧しく、無力な姿でこの世にご自分を現してくださったと語っています。 主イエスは「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは,わたしにしてくれたことなのである」と語っておられます(マタイ25章)。私たちが日毎に出会っている助けを必要としている貧しい人や苦しむ人たちの中に主イエスがおられる、それらの人たちを通して私たちは主にお会いすることができるのではないでしょうか。クリスマスを迎えるにあたって私たちの視線は何処に向けられているでしょうか。その先に主はおられるのでしょうか。
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